母の「悔恨の海」

 母(桂敏子・旧姓吉成)が十三歳、昭和二十年八月二日の昼前のことである。日本はまもなくアメリカによる広島への原爆投下により、その長く悲惨な戦いを終えようとしていた。
 四月に生まれた妹が泣きやまないので母は母(私の祖母)を呼びに出た。祖母の吉成好美(故人)は田んぼで草取りをしていた。
 鳴門市島田島、海岸からは淡路島が間近に見える、小さな島の一番奥に母の生家はある。
 外に出た母の耳に、海の方からバリバリッという音が聞こえ、米軍機が二機、左右に分かれて飛び去った。祖母が撃たれた、と思った母はあわてて走る。すると祖母は田んぼで手を振って、海を見に行けと合図していた。
 海岸に出ると炎上する船、その手前にはスイカがたくさん浮いていた。貨物船でもやられたのかと思ったが、浮き沈みするスイカから『助けてくれ』と叫び声が。鳴門海峡の潮流である。ちょうど満ち潮が終わりかけていたときで、流れはゆるやかになっていたが、負傷もしているのだろう、必死になって泳いでも海岸には近づいてこない。それでも二人ほどは自力で泳ぎ着いて、救助を求めた。
 母は振り返って再び家に向かって走った。家にはちょうど母の兄の茂(当時十七歳)がいて、歩み板(港で船に乗り降りするために渡す板)を持って飛び出した。そして無謀にもその板だけで海に飛び込んだ。
 潮流はすでに引き潮に変わり始めていた。しかも板には数人がしがみついていて自由がきかず、救助どころか共に遭難しかねない。
 その間、祖母は近所の人たちを呼びに行っており、島田と室(むろ)から小さな手こぎの舟が数隻出された。 母が舟の櫓を取りに行くとき、島田島の対岸にある北泊(きたどまり)から疎開していた医師の吉田畫一先生(故人)と出会った。事情を話すと先生は海岸に駆けつけ、皆に指示して救助や応急処置をした。また薬を取りに、約4キロの道のりを自転車をとばし、渡し船に乗って北泊へ帰ると、そこからも救助船を手配してくれた。
 北泊からは漁業組合の大きな船が出て、炎上する船の消火にあたり、最後には淡路島に曳航したが、残念ながらほとんどの人が亡くなった。
 救助されたのが兵隊であることがわかり、徳島の連隊から休暇で帰っていた南**さんが、島で唯一、島田小学校にあった電話で連隊に連絡。さっそく隊から人が来たが、すぐには連れて帰れないとのことで、島の人たちは集会所で、食事や風呂、衣服の準備をした。
 まさに夕食が始まろうというときに、再び徳島の隊から、救出された兵隊たちを移動すると言ってきた。島の人たちは、せっかく用意した食事だからと、おにぎりや弁当にして持たせたが、軍事機密から、彼らがどうなったのか知らされることはなかった。
 ただ島の常会長(町内会長のようなもの)の元に、淡路の隊からはがきが一枚届き、そこには今回の事件のことは一切秘密にするようにとだけ書かれていた。
 母も、後に不思議な縁と出会いがあるまで、気にかかりながらも、その後のことを知るすべもないまま時日は過ぎていった。
 その後彼らは、重傷者は手術のために淡路や松茂の航空隊に、軽傷者は鳴門市中山にあった臨時病院のような施設に収容された。
 攻撃を受けたのは、宝塚の予科練生ら一〇九名を淡路島の阿那賀港へ輸送していた住吉丸であったが、米軍機の本当の任務は『広島』の偵察で、原爆投下は当初、八月四日の予定であった、と毎日新聞記者であった義理の叔父深田重蔵(故人)に、母は戦後まもなく聞かされた。
 鳴門が日本軍の警備が手薄と、三機の米軍機が偵察に来たが、一機は松茂から鳴門に来る途中、日本機の体当たりなどによって追撃された。その証拠として、島田島にはこの追撃された米軍機のパイロットの墓がある。偵察に失敗した米軍機は、ちょうど鳴門海峡を航行する予科練生の乗った船を攻撃したのである。このために原爆投下が六日になったというのである。このことは今の私には、真偽を確かめることは難しいが、もし事実なら、この事件は日本の終戦を二日遅らせたことになる。
 さて母は結婚して桂家に嫁ぎ、この事件のことは遠い記憶となっていった。
 昭和五十六年、ペンクラブの会員でもあり、戦争研究家として著名な茶園義男先生が、徳島新聞に書かれた記事の中で、このことに少しふれたのを母は見逃さなかった。
 そして翌々年、創価学会の青年部が中心となって『徳島県民と戦争展』を開催。私もそのスタッフの一人として、資料の収集や企画に参加していたため、資料をお借りするために茶園先生を訪問。
 このとき私は、母に聞いていた事件の話をすると、茶園先生は母に会いたいと言われた。これをきっかけとして、母は予科練生事件のことを知る華岡**さんと出会う。
 さらに淡路で亡くなった予科練生の菩提寺となっている春日寺のご住職の奥様から、生存者や亡くなった人を供養する慈母観音会の世話役をされている山本亥佐夫さんを紹介された。
 こうして母の中で断片的であったこの事件は、点から線、そして面へと展開していくのである。
 山本さんら生存者も、軍事機密のために自分たちの事件の詳細を知らされてなかった。そのために自分たちがどこの誰に救助されたのかもわからず、当時の礼をすることもできなかったのである。
 戦争展からわずか数ヶ月後の九月十五日。山本さんは母と島田島の人たちに会うために来県。鳴門の亀浦港での母と山本さんの再会は、今も忘れない感動的な瞬間だった。もちろんお互いに顔など覚えてはいないのだが、長い時間空白になっていた歴史は一挙に埋まていくかに思えたのである。島の集会所での再会も、さらに感動的であったことはいうまでもない。
 その後、母はとぎれていた運命の細い糸を紡ぎあわせるように、調査を続けた。山本さんを通じて生存者から手紙を受け、北海道からわざわざお礼に訪ねてくれた人もいた。
 次の年、昭和五十八年五月二十七日。大法要が行われ、全国から生存者が集った。法要後に皆でフェリーから花を捧げた。
 この事件と戦争の悲惨さを風化させないようにと、母や山本さんら関係者の熱意と執念の誓願が鳴門市を動かし、平成三年十二月二十四日、救助顕彰碑が島田島田尻の浜に、事件のあった海峡を見守るように建立された。
ここにその碑文を全文引用しておきたい。
『予科練習生救助顕彰碑
 大東亜戦争(太平洋戦争)の終結を目前に控えた昭和20年8月2日、宝塚海軍航空隊甲種飛行予科練習生ら109名は、杉本海軍大尉指揮の下に鳴門要塞増強工事の任務を帯び、鳴門市撫養港を木造機帆船住吉丸で出港し、鳴門海峡を淡路島阿那賀港に向かっていた。
 正午過ぎ、鳴門市島田島の沖合2キロに差しかかった時、米軍機2機の空襲を受け、船体は大破、忽ちにして56名が戦死、生存者は鳴門海峡に飛込み、急流に翻弄されながら漂流した。(10名は、船に残留)
 これを知った鳴門市粟田・北泊・大島田及び室の地元民が敵機の飛交う海上を漁船で出動し、必死の救助の結果17名を救出したが、他の26名は若い生命を失い、計82名の戦死者がでた。
 当時、我が国は軍機保護の立場から厳しい報道管制下にあり、この悲惨な出来事は長年埋没されて来た。
 近年、この史実が明らかとなり、人心がすさみがちになる戦時下において、我が身の危険も顧みず、決死の覚悟で多くの生命を救った人間愛は、世の人々に深い感銘を与えた。
 ここに、世界の恒久平和を祈念すると共に、、慈愛に満ちた勇気ある鳴門市民の行為を後世に長く顕彰する。      平成3年12月吉日     顕彰碑建立実行委員会』
 NHKはこの事件を取り上げて「悔恨の海」と題したドキュメンタリー番組を制作。徳島局で放送された後、反響の高さに全国放送された。
 母はまもなく七十四歳。時間は鳴門の潮流のように速く過ぎていく。